松下電器発祥の地・猪飼野


1 独立の地は“大阪市東成区”

松下幸之助は大正六年の六月、それまで勤めていた「大阪電燈株式会社」を依願退職し、独立の道を歩み出した。その頃住んでいた、“猪飼野”の借家を作業場に改造して、みずからの考案になる恟シ下式ソケット掾i=実用新案第四二一二九号。二股ソケットではない。それはもう少しのちのことである(1))の製造を始めたとされている。
それは、二十二歳の青年の型破りな、常識的に考えればほとんど成算があるとは思えないような無謀な独立であった。しかし、その“無謀”がなければ、今日の“世界の松下電器”の存在はなかったわけである。
その辺りの経緯は数多くの文献の随所に記述されており、また『大阪立身―小説・松下幸之助』(邦光史郎著、サンケイ新聞社出版局、昭和五十年)、『望洋―井植三兄弟』(同著、日本経済新聞社、昭和六十年)その他の小説などによっても、そのあらましを知ることができる。
さて、その独立の地、すなわち松下電器発祥の地が“大阪府東成郡鶴橋町大字猪飼野”であったことは、松下の自著『自敘傳』(松下電器産業、昭和十七年)に、
「工場は僕の住んでゐる平屋(當時猪飼野に居った)……」
とあることによって明らかである(2)。
ところが、『松下電器五十年の略史』(松下電器産業・創業五十周年記念行事準備委員会、昭和四十三年)になると、「東成郡(現在は大阪市生野区)猪飼野」と、現・区名が注記されている。
しかし、猪飼野地区は現在の生野・東成の両区に跨っているので、猪飼野のどの地点なのかが特定されない限り、生野区とも東成区とも断定できないのである。
この「生野区」という区名注記が誤りではないかということは以前、すでに指摘したところであって、PHP総合研究所・佐藤悌二郎氏の論考 「【事蹟研究】松翁の足跡・其の一『独立の地・猪飼野』」(『松下幸之助研究』2000・春季号、PHP研究所)に私の主張が採用されている(3)。
このたび、佐藤氏のその論考をPHPのホームページ上で読まれた吉村という方から、極めて重要な手掛かりとなる証言が寄せられ、これが突破口となって、猪飼野における正確な住所をついに突き止めることができた。その住所は、
大阪府東成郡鶴橋町大字猪飼野字針求一三九九〜一四〇〇番地

であり、この場所はのちに大阪市に編入されて、
→大阪市東成区猪飼野町同番地(大正十四.四.一〜)
→大阪市東成区猪飼野大通二丁目一番地(昭和七.四.一〜)
→大阪市東成区大成通二丁目一番地(昭和十九.一.一〜)
→大阪市東成区玉津二丁目一番地(昭和四十五.九.一〜)
となった(九五頁地図参照)。
住居表示では玉津二丁目七番街区・一四番街区の一部に該当する。

2 猪飼野地区のあらまし

さてここで、松下電器の社史が猪飼野について何故“生野区”と誤って注記したのかという理由をも含めて、猪飼野地区(近世の猪飼野村、近代の猪飼野町)の位置・領域・沿革等の大要を述べておきたい。
猪飼野の地名は、日本書紀・仁徳天皇十四年の条に「猪甘(いかい=猪飼)の津に橋わたす。その処をなづけて小橋という」と記すところの“猪甘の津”に由来する。これはわが国最古の橋の記述として有名な記事である。
この猪甘津の橋は、江戸時代、鶴が多く飛来したために名付けられた「鶴之橋」の場所にあったとされており、この橋の名は、近代における鶴橋村・鶴橋町・鶴橋駅などの名前のルーツとなっている。
「鶴之橋」は、大阪の東郊を南北に流れる平野川、古名百済川に架けられたもので、そのはるか下流にあたる猪飼野北部には、江戸期以来、亀之橋(現・東成区玉津二丁目二〇番街区)があった。猪飼野地区は、この平野川(4)の右岸すなわち東側に沿った、南北約二四〇〇メートルの細長い地域である。その集落は、鶴之橋付近(現・生野区桃谷三丁目)にあり、その他はすべて農地であった。
農地部分については、後述の舟橋町や、高津町方面に通ずる「亀之橋」の周辺が明治末期〜大正初期にかけて先に開けた。大正六年の“独立の地”がこれにあてはまる。それ以南、すなわち生野区方面は大正八年からの「鶴橋耕地整理」事業によって昭和二年以降急速に市街化が進行した(『大阪建設史夜話』〈(財)大阪都市協会、昭和五十五年〉参照)。猪飼野は古来、東成郡に属したが、大正十四年、大阪市に編入されて東成区の一部となった。
昭和十八年、東成区のうち近鉄線以南を分割して生野区を創設した際、猪飼野の大部分は生野区に属することになったが、近鉄線以北(猪飼野全体の約六分の一)は従来通り東成区所属のまま残った。
東成区に属する部分は、これより先、昭和七年に猪飼野大通一〜三丁目と改称されたが、これは昭和十九年“大成通一〜三丁目”と改められ、“猪飼野”の名称が生野区より三十年近くも早く廃止されている。これが略史において、猪飼野=生野区と誤認された原因であって、それ以上の深い理由があるわけではない。
なお、生野区猪飼野(東・中・西)の方も、昭和四十八年、住居表示の施行に伴い、鶴橋・桃谷・中川西・中川・勝山北・同南・田島の各一部となり、町名としての猪飼野は全く消滅した。
ちなみに、猪飼野の北端に位置する“字針求”(独立の地)は、室町時代、四天王寺領であった「猪養野(いかいの)庄」の内の“字針水”という田地に比定されている(「猪飼野郷土誌」〈猪飼野保存会、平成九年〉参照)。

3 検証の過程

今回の結論に至る紆余曲折を述べることは、一見蛇足のようであるが必ずしもそうではない。上記の結論を補強する傍証ともなるであろう。
邦光史郎作の小説『望洋―井植三兄弟』は、松下の猪飼野での住所について次のように記述している。
「鶴橋駅から東へ向かってすこし歩いていくと、畑の中に、長屋が見えてきます」
これは幸之助の妻うめの(作中の仮名)が、郷里の弟・井植歳男を呼び寄せるために出した、松下の住居を教えるハガキの文面ということになっている。
また、そのあとの文章にも「細長い平屋建ての長屋」「チマチマとした家がずらりと六軒ほど一つ屋根の下につらなっている」「井戸も共通なら、便所も共用で……(5)」などと極めて具体的に述べられている。
そしてこの描写は、神坂次郎『天馬の歌』(日本経済新聞社、平成六年)や津本陽『不況もまた良し』(幻冬舎、平成十二年)にも採り入れられて、「借家は、鶴橋駅から東へすこし歩いたところの、畑のなかに六軒ほど並んだ軒の低い長屋の一軒であった」などと記されている。
小説とはいえ、他に頼る記録が全くない以上、これを参考にせざるを得なかったし、作者が松下に直接取材をした上で書いた可能性が十分あるようにも思えた。
私はこの記述と、略史の“現在は大阪市生野区”の記載に従って、現・生野区鶴橋三丁目の柳橋通り付近(6)を一応の候補地と仮定し、それを自作の“猪飼野ガイドマップ”に記入して知人等に配布した。ただし、この付近での聞き込みからは何の手応えも得られなかった。
ところが、東成区大成連合振興町会会長の小川治海氏が、地元の会合でこのマップに記された“松下独立の地”を話題にしたところ、それに対して次のような興味深い発言があった。
@ 東成区玉津三丁目のA理容所は、元は、松下の大阪電燈時代の同僚であった金山(乾治。明治二十五年生まれ)という人の経営する“美人館”という理髪店であった。のちにその店を買い取ってそこで営業しているA氏が、以前金山から聞いた話によると、松下さんは(玉造にあった金山の実家での下宿ののち=筆者補足(7))、天王寺区の舟橋町で下宿していたという。
余談だが、A氏によると金山は昭和天皇にそっくりな風貌の人だったらしい。
A 戸川益良氏(昭和二年生まれ。玉津三丁目在住)からの情報によると、戸川氏の近所のB氏(明治三十三年生まれ。故人)は大正の中頃から昭和九年九月(室戸台風によって工場が倒壊したという)まで現在の東成区玉津二丁目辺りでメッキ工場を経営していた。そのB氏が、松下さんの工場は自分の工場の近くにあったと話していた。
私がその後、土地台帳によって調べたところ、B氏の昭和九年以前の住所が“猪飼野大通二丁目二四番地”(今回の確定地から南約一〇〇メートル。現・玉津二丁目一六番街区に該当)であったことを確認することができた。
この戸川氏の証言によって、“発祥の地”は現・玉津二丁目付近の確率が極めて高いと思われたが、この時点では未だ決定的な確証を得るには至らなかったのである。

4 吉村氏からの情報

昨年十二月、PHP総合研究所の佐藤氏宛に、吉村なる人(以下、Y氏と記す)からのEメールが届いた。
その要点は、
@ 松下幸之助さんが鶴橋にて間借りしていた家の大家は自分の伯父の家(当時、防水布製造業)ではないかと思う(子供の頃、たしか親からそのようなことを聞いたと記憶している)。
A 幸之助さんが吉村家の親戚である林伊三郎氏と一緒に仕事をされていた関係で、吉村家に間借りをすることになったと思う(筆者注=林は大阪電燈の元社員で、松下の以前の同僚。松下が大阪電燈を退職して独立した際、この人もその頃勤めていた会社をやめ、一時松下のソケット作りを手伝った)。
B 林氏は、幸之助さんの猪飼野での商売の不調が続いたので一旦別れたが、晩年は松下に招聘され、PHPにも在籍した。その子息は、昭和三十年代に阪神ショールーム所長となったが同四十年代はじめに死去した。
というものであった。
しかし、そこにはY氏自身の名も伯父という人の名も明記されていなかった。またY氏が当時の伯父さんの住所と考えておられた地番が示されていたが、これはのちに誤認であったことが分かったので、ここには書かない。
このメールはかなり具体的な内容を含んでいるので、信頼するに足る情報らしいという感じは受けたものの、伯父にあたる人の名前が分からない上に、そこに記された住所地番からは何ら有効な手掛かりを得ることができなかった。
私は実はこの時点で、『大阪地籍台帳』(吉江集画堂、明治四十四年)という土地関係の資料の中から、
猪飼野村字針求一三九九・一四〇〇 吉村安次郎(住所=舟橋町)
(宅地一二六坪、雑種地一三七五坪、計一五〇一坪)
の記載を見つけ出し、これを一応マークしていた。その土地の場所は戸川氏の証言にも大体合致するものであったからである(8)。
そして、それからしばらくの日数を経たのち、ふと、古い電話帳を調べてみるという方法を思い付き、下記の通りの記載を発見した(9)。

大正十二年五月一日現在 大阪電話番号簿(電話番号は省略)
吉村安治郎  東成、鶴橋、字針求一三三九地  防水布製造業
大正十四年六月一日現在 大阪電話番号簿(電話番号は省略)
吉村安治郎  東成、猪飼野、一三三九地    防水布製造業

これによって、Y氏の伯父がこの人であることは間違いないとの確信を得たので、そのことをY氏にメールで書き送ると同時に、『大阪地籍台帳』に吉村安次郎の住所として記載されている“舟橋町”についての心あたりも、そのついでに尋ねてみた。
それに対するY氏の回答は次の通りであった。一部省略したが、ほぼ原文のまま引用させていただく。

@ ご調査の「吉村安次郎(防水布製造)」は間違いなく私の伯父(父の兄)です。明治時代に石川県松任市北安田町(現在の地名)から大阪に出てきてこの業を起こしました。
A 松下幸之助さんが伯父の所で借家生活をしていたというのは、私が小学生の頃(昭和二十年代前半)に父母から聞いたことを子供ながら覚えています。「土間で電気部品などを作っておられた」という程度で、何を作っておられたかなど詳細は存じません(黒い粉を練って作った物を土間に沢山並べておられたとか? の程度です)。
B 松下幸之助さんが伯父の所で借家した経緯ですが、伯父・父と親交のあった従兄弟の「林伊三郎」(同郷出身)という人も大阪へ出てきていまして、当時たまたま松下幸之助さんと一緒に仕事をしていました。このような関係で林さんの紹介で防水布製造をしていた伯父の所へ相談に行ったそうです。
C お尋ねの「舟橋町」については、あいにく記憶にありませんが、子供の頃伯父の家は鶴橋駅の近くということは聞いていました。直接関係はないかも知れませんが、「さなだやま」という言葉を父がよく使っていたのを覚えています。このようなことを知っている人も次々に亡くなられましたので、歴史に残る偉大な方の伝承としてお役に立てば、本当に光栄に存じます。

法務局備え付けの「移記閉鎖登記簿」の記載から、明治四十二年〜昭和二年当時の吉村安次郎の住所が次の通りと判明した。
大阪市天王寺区舟橋町四三番地(現・同区舟橋町四番街区と真田山町五番街区の各一部に該当(10))
Y氏の証言@Cと完全に一致している。
この舟橋町については、いろいろと述べるべき事柄があるが、論議が多岐にわたり過ぎるので、その問題は次の機会にゆずることとしたい。
なお、のちにY氏のご教示で知ったが、防水布製造業には自然乾燥のための広い場所が必要とのことである。先に掲げた吉村安次郎の土地のうち、雑種地一三七五坪というのは、そのための空き地かも知れない。

5 むすび

松下幸之助独立の地(松下電器発祥の地)が、現・大阪市東成区玉津二丁目一番地の場所に確定したことは、以上述べた通りである。
これに付随した情報は今後更に集まる可能性があるが、この結論を覆す材料が出ることは一〇〇パーセントあり得ないと思う(根拠のない誤った風説は過去にもいろいろとあったし、今後も出てくるだろう)。
過日、Y氏からの第二信が届いたちょうどその日、東成区大成小学校PTAの新年互例会が行われた。冒頭のあいさつの中で、大成連合会長の小川氏は、私からの連絡による“地点確定”のホットニュースを披露された。大成小学校の丹羽校長は地域の歴史に深い関心を持たれており、当校児童の地域学習の一環として“発祥の地”のことも取り上げたい、との発言もあったという。
最近、松下電器創業の地である大阪市福島区において、顕彰碑の建立が計画されていることはまことに喜ばしいことである。
本年はちょうど松下幸之助氏生誕百十年の記念すべき年にあたっている。その年に“発祥の地”が判明したというのも、何かのふしぎな力が働いているような気がしないでもない。東成区においても、福島区同様に顕彰活動が盛んに行われることを希望している。
しかも来る二〇〇七年は、幸之助氏の猪飼野での独立後九十年の節目の年であるが、猪飼野地区の氏神である御幸森天神宮では、この年に向けて“創祀一六〇〇年祭記念事業”(反正天皇二年、日本書紀によると西暦四〇七年の創建)の計画が進行中である。これもまた、まさしく神縁というべきかも知れない。


【注】
(1) 世上、伝説的に語られている、いわゆる“二股ソケットの発明”は、現・福島区大開町に移転後のことである。
(2) 『自敘傳』は昭和三十七年に少し語句を改め、『私の行き方考え方』と改題して実業之日本社より発刊された。現在はPHP文庫の一冊として刊行されている。実日版は猪飼野の“猪”字を脱し、PHP文庫で元に復している。
(3) 佐藤氏の前著『松下幸之助 成功への軌跡』(PHP研究所、平成九年)は厖大な資料を駆使して著述された労作であるが、その後、“さらなる真実に迫”ることを目的として、この【事蹟研究】の連載が開始された。
(4) 現在の(新)平野川は猪飼野地区の中心を南北に貫流している。鶴橋耕地整理の際に開削されたもの。
(5) この地区(旧・鶴橋町)では大正五年一月一日に上水道の給水が開始されている。従ってその当時すでに井戸と水道を併用していたと考えられる。「長屋」との記述にも疑問がある。
(6) あとでよく考えるとこの仮定は明らかに誤りで、この近辺から何の反応も得られなかったのはむしろ当然のことだった。旧・平野川に架す柳橋は、当時の大軌(現・近鉄線)鶴橋停留所に最も近い位置にあるが、この橋は大正十一年に架けられたものであることが、現在遺されている石の親柱の刻銘から推定される。松下が居た大正六年は鶴橋耕地整理が始まる以前であるから、その時点ではこの場所にはまだ街路も橋もなかったはずである。
(7) 『私の行き方考え方』PHP文庫、昭和六十一年、五二頁
「私は下宿生活を十六の年から二十歳の結婚まで、金山という同じ会社の同僚の家で送った」とある。しかしこれは“美人館”の場所ではない。美人館の開業は昭和十年代のことだろうと聞いている。また佐藤氏著『松下幸之助 成功への軌跡』一四九頁によれば、その下宿は、電燈会社から二キロメートルほど離れた玉造と推定されている。
(8) 記述が煩雑になるので本文では省略したが、戸川氏の証言は実際はもう少し詳しい。大一電機北側を東の方へ入った弁天市場(現・ノバ今里)の裏側辺りの方角にB氏や松下さんの工場があった、とB氏から聞いている、との話であった。古い伝聞のため、あいまいな点があるが、その辺りから更にもう少しばかり東へ(現在は通路なし)進むと、今回の“確定地”に至るので、方向的には矛盾しない。
(9) この調査は、畏友・奥野博史氏の蔵書により、氏の手を煩わせた。安治郎の治は電話帳の誤植。
(10) 東成区大成通二丁目の土地台帳が法務局で欠本となっている(一丁目と三丁目の分は完備)ため、調査上まことに歯がゆい感じがするが、しかし大体の目的はこれで達成されたと考えている。なお、舟橋町では吉村安次郎が土地を所有した形跡はない。

(あじろ・けんじろう 郷土史研究家)